棺の横に、青いインクで書かれた原稿用紙が置かれていた。
「第一章 空に憧れた日々 少年飛行兵第14期乙種生徒」。終戦間際に特攻隊として出撃したものの、機体の故障で帰還した元少年飛行兵の関口文雄さん(91)の記録である。これが記録作家・林えいだい氏の遺稿となった。
誰からも親しみを込めてそう呼ばれたように、ここでも「えいだいさん」とお呼びしたい。2013年10月、えいだいさんは群馬県高崎市にある関口さんの自宅を訪ねた。その年の夏に食道にみつかった癌は、えいだいさんの声帯を圧迫し、小さな声を出すのがやっとだった。病気を気遣う関口さんに、「今度、食道癌を切らないかん。楽しみです。」と笑いながら答えた。
特攻は自らの志願だったのか、それとも上官の命令だったのか。えいだいさんは繰り返し関口さんに訊ねた。
「昭和19年の12月6日、旧満州四平の42教育飛行隊に転属されると同時に特攻隊になった。上からの命令です。反対する人はもちろんいないわけですよ。俺は嫌だという空気ではないんです。」という関口さんの証言をもとに、遺稿には次のような記述がある。
「陸軍少年飛行兵と特別操縦見習士官を大量に採用した裏に、大本営と参謀本部に、すでに特攻作戦の構想があったのではないかと私は疑う。少年飛行兵のような純粋な少年の空を駆ける夢を、うまく利用したのである」。
人が人に命令して死を強要する。これが旧日本軍による特攻作戦の本質である。「国家権力は決して国民の命を守ろうとはしない。国民が黙っていては権力の暴走は絶対に止まらない」と、えいだいさんは語っていた。それはえいだいさん自身の幼い頃の体験に基づいている。
北九州市の小倉駅からJR日田彦山線で筑豊方面に向かうと、約40分で田川郡香春町の採銅所駅に着く。かつてこの一帯は銅の産地で、香春岳で採れた銅は宇佐神宮の御神体である銅鏡として奉納されたと伝えられている。えいだいさんの生家は採銅所駅に近く、その隣に父親が神主を務めた古宮八幡宮がある。戦争が激しくなると炭鉱の重労働と民族差別に耐えられずに脱走してくる朝鮮人が神社の床下に隠れ住んだ。父親の寅治さんと母親の香さんは朝鮮人を自宅に匿い、身体を回復させてから送り出した。「脱走した朝鮮人を助ければ国賊や非国民と呼ばれた時代に、彼らを匿った父と母は僕の誇りですよ」。
涙を流しながら祖国の民謡「アリラン」を口ずさむ朝鮮人を見た時、えいだいさんは加害者としての日本人の罪を感じた。
えいだいさんが9歳の時、父親の寅治さんは反戦思想を取り締まる特高警察の拷問を受け、命を落とした。非国民として葬式を出すことさえ許されず、母親とともに夜中にひっそりと父親の遺体を焼いた。この時の心の痛みは生涯消えることはなかった。
いつの時代も権力者は歴史を自分の都合の良いように書き換えようとする。歴史書は権力者の意向を忖度する官僚や、権力におもねる学者たちによって編纂される。えいだいさんは、それを「歪められた歴史」と呼んだ。
「大正14年に治安維持法が成立したわけです。それによって戦争に反対したり平和を唱えた人たちが拘束された。それを戦後70年という時に秘密保護法とか集団的自衛権とか、次から次と法律を作って昔のような戦争の状況を作ろうとしている。心から怒りを感じますね。」
記憶されない歴史は繰り返される。権力に棄てられた人々や忘れ去られようとする名もなき人々の証言を掘り起こし、記録することが自らの使命だと語った。
遺稿は131枚の原稿用紙に綴られている。最後のページは特攻作戦から帰還した兵士を収容し、再び「死ぬため」の教育を行う振武寮(福岡市に置かれた帰還特攻兵の隔離施設)の食堂の記述だった。「食事はすべて管理部の調理場から運び、盛付けはすべて管理人が行うことになっている。酒類はすべて食堂の冷蔵庫にある」。原稿はそこで終わっていた。
えいだいさん、あなたはこの先に、どんな戦争の不条理を書き残そうとしたのか。
2017年9月1日、午後2時。病床のえいだいさんの口が動いた。「まだ言い足りないことがあるんやろうね」。隣で看病をしていた妻の安子さんが声をかけた。やがて呼吸が止んだかのようにみえたが、心臓の微かな鼓動はそれから30分以上も続いた。この国には、まだ記録しなければならない歴史の闇が数多く残されている。それを伝えようとするえいだいさんの執念のように思えた。
西嶋真司
映画「抗い 記録作家林えいだい」監督
2017年9月17日付 毎日新聞西部本社版に掲載